多くの人が、言われると「うっ」とくる言葉の一つに「常識」という言葉があると思います。
しかしなぜに、その言葉に、皆さん「うっ」とくるのか、ちゃんと考えたことがありますか?
おそらく、多くの人が、自分なりの答えを持っていないのではないでしょうか。
だからこそ、ちょっとしたときに言われると「うっ」となるのです。

また、「常識」という言葉を、相手を攻撃するために都合よく利用をする人間も多くいます。というか、ほとんどがこの手の輩だと言ってもいいでしょう。
まず、常識と言うものは、固定的な内容ではなく、時代により変化をする内容です。それこそ、戦中の常識と、戦後何年か経った時代の常識は全然違います。そして、今と昔の常識も違います。

そもそも、多くの人が使う「常識」という言葉の前には、「自分の中での」という言葉がくっついています。つまりは「自分の中の常識では~」という意味合いですね。
さて、このように、隠れた部分を明文化した場合、皆さんはどう思うでしょうか?
おそらく多くの人が、今まで無条件に「常識」と言う言葉に、「ぐぬぬぬぬ~」と来ていた状態から、「それはあんたの意見だろ?」と思いやすくなったのではないでしょうか?

やたらと常識だとか、ルールだとかを「錦の御旗」にして、全くもって「どうでもいいこと」に対して攻撃的に絡んでくる人の多くは、自分の主張を、世間の、世界の人々の意見であり、その代表として自分は、お前に言っているんだ~!みたいな勢いで接触をしてくる人間がほとんどです。
もしくは、個人的なストレスなどをぶつける口実に、使っているという感じですね。

皆さんもお気づきだと思いますが、基本的に、一人の主張よりも、多くの人の主張の方が、インパクトや威力があると思います。もちろん、このような状態がすべて悪いものだとは言いません。必要なことも世の中には沢山あります。

しかし、そのような必要な内容よりも、個人の不満を一時的に解消をするために、世間の代表者のようにふるまって、個人を攻撃したり、酷くなるとイジメなどの悪質な行為にまで繋がっている内容の方が多いと思います。というか、日常的だと思います。

確かに、「常識」という言葉は、とても威力がある言葉です。しかし、言葉と言うのは不思議なもので、少しの違いだけでも、大きく変化をする「ツール」でもあります。
それが、先程書いた「自分の常識では~」という「自分」という言葉が明文化されただけでの、大きな変化です。

「常識」という言葉だけでは、世間や世界、時代などの社会生活全般を意味しているのに対して、その言葉の前に「自分の」という言葉が付くだけで、一気に、世界や時代というスケールから、個人というスケールにまで小さくなってしまいます。もちろん、個人というスケールの内容がすべて世界というスケールよりも、ダメであるとは言いません。基本的に、ちゃんとした内容であれば、どちらも対等だと考えればいいのです。

先程書いた様に、個人の問題…というよりも、単なる、わがままを、世界の問題ごとのようにすり替えている人がいるからこそ、「常識」という言葉に「ぐぬぬぬぬ~」となるのでしょう。
そして、このように「ぐぬぬぬぬ~」となる人が意外に多いというのは、違う角度から見るのであれば、それだけ「卑怯者が多い」ということでもあるのでしょう。

しかし、そこで思い出してもらいたい!その「常識」の言葉の前に、「自分の」という部分が隠れていることを!
それをしっかりと見抜ければ、今まで腑に落ちなったイラつきも、単に「あぁ~、まーた始まった…。」くらいに思えるはずです。

そもそも、本当に常識…というか、世間や他人のことを考えている人間であれば、毎回のように他人を攻撃したり、不快にさせる態度を取ることは、まずありません。
もちろん、神様ではないので、たまには不手際を起こすこともあるでしょうが、本当にその程度です。

言葉というのは、表面的な部分だけでなく、その裏側には、多くの内容や意味合いが含まれていることがほとんどです。これには、日ごろから言語運用能力が低いと思われる人たちも含まれます。

というのも、例えば、街中でのお買い物デートをしているときに、女性から「なにか飲む?」みたいに聞かれたときは、女性の「本音」は、「疲れたから休みたいって意味なんだよ!」みたいに言う人が何年か前にテレビに出てましたが、これなんかはわかりやすいと思います。

なぜ素直に、「疲れたから休みたい」と言わないのか?というと、ここでもいくつか理由があるようです。少しだけ書くと、まずは単純に、素直におしゃべりできない(笑)とか、「嫌われたくない」とかいう意味不明な理由、そして、男性を値踏みしている、というのが多かったようです。
最後の値踏みは、要は、いろいろと自分が言わなくても、都合よく動いてくれるのか?という部分を確認しているようです。

このような感じで、すべての人は、その言葉の中身や裏側に、何かしらの意図を秘めています。その秘められた内容は、素晴らしいものもあれば、愚かな内容もあります。
では、その隠れた内容を見抜くにはどうしたらいいのか?と思った人もいるはずです。それについては、また別の記事で~、とは言いません(笑)

これは逆説的な部分も含まれますが、「言葉以外の内容を観察して、言葉の中身を見抜いていく」という内容と、「言葉をよく観察をして真理を観ていく」という内容が比較的やり易い内容だと思います。

まず、言葉以外の内容を観察するというのは、文字通りになるのですが、例えば、「自分は子供が大好きなんだ~」と、子供好きをアピールする人の多くは、ほとんどの場合、言葉が悪いですが、幼児期の子供をペット感覚で認識をしていることがほとんどです。
ですから、思春期近くなって、自我がより確立され始める年代の子供たちになると、これまでとは真逆の態度を取る人も少なくありません。
このような人間かどうかは、実際にそれぞれの年代の子供たちと接している姿を見ればすぐにわかるでしょう。

そして、さらに深くまで見るために、ここでも、言葉というツールが利用できます。
先程の、「言葉をよく観察する」というのは、今回の例では2つのシーンがあります。
一つ目は、子供たちに対して、直接的に使っている言葉。
二つ目は、あなた自身が相手と会話をしているときの言葉です。

これは、裏では陰口を言うような人間をイメージすると良いと思います。
例えば、八方美人のAさんは、とにかく他人にはいい顔をするが、恋人のBさんには、ことあるごとに多くの人の悪口を言っている。例えば、Cさんに対して、「髪がきれいですね~!」とか言っておきながら、本音は「小汚くて最悪。ちゃんと洗ってるのかよ(笑)」みたいに思っているという感じですね。

ちょっと例えが下品ですが、このような感じで、対象としている当事者がいないときの言葉をしっかりと観察するのです。つまり、ここであれば、子供たちがいないときに、どのようなことを言うのか?ということになります。

基本的に、言葉以外の内容の観察も、言葉の観察も多くの人が「何気なく行っている」とは思います。しかしそれなのに、なぜ自分が思うような判断ができないのだろうか?と思うでしょうが、それは、何気なくのクオリティーが低いからです。要は、処理の仕方が甘いのです。
感覚的には、一般的な人たちが思っているよりも、かなり「クリティカル」に対象を処理する必要があると思います。
もちろん、これも慣れで、ある程度まで鍛えられると、何気なく処理をするクオリティーも高くなってきます。

では、このような状態にするには、どうすればいいのか?というと、実践をするしかありません。
ただし、直接的な相手がいなくてもできる、訓練効果のある日常の過ごし方は沢山あります。
その中の一つに、ニュース記事の裏側を意識しながら、読み進めていく!という方法があります。
違う言い方をするのであれば、どのような意図でこのニュースは書かれ、配信をされたのだろうか?という、今思いつく限りの疑問を持ちながら読み進めていく、という感覚です。

この時に、その疑問に対して、自分なりでいいので、答えを考えていきます。ちなみに、この時の答えは真実と違っていても良いのです。
つまりは、予測を立てるような感覚で、個人的に思う答えはこれだ!みたいな内容でいいのです。ただし、できる限り多くの内容を考えていくことです。

そして、このような思考処理を、実際に人と対面をしているときにも行うのです。これも慣れると、自然と会話をしながらできるようになります。

このような内容は、人によっては、他人を値踏みしているようで、嫌に思うかもしれません。
しかし現実として、このように、自分なりに色々と考えながら人と接するということは、現代においてはともて大切です。
その理由の一つに、「本当に自分が大切だと思える人を守るため」というものがあります。もちろん「自分の夢を守るため」という部分もあります。

悲しいことですが、友人関係というプライベートな内容でも、本当の友人と言えるような関係性を作れている人は少ないと思います。だからこそ、ところどころで「本気の不満が出てくる」のでしょう。
ちなみに、本気の不満とは、一時的な過失などに対してのことではなく、常時感じている不満という意味で、今回は使っています。

個人的には、友人と呼べる人達にはそれぞれの考え方があり、私と真逆の考え方を持っている人も少なくありません。ですが、私自身はその部分に対して、全く不快に思ったり、疑問に思うことはありません。このような、ある種の寛容性を自然と持てることが、友人という言葉の定義一つだと思っています。

もちろん、今回の記事全体で言いたいのは、友人関係に限定せず、人間関係全般での内容になります。
人間関係と言うのは、基本的に言語と行動でのやり取りになります。そして、現代社会では言語でのやり取りが基本になります。
その中で一部の人間には、言語というツールを悪用して、他人を傷つけたり、不快な思いをさせる人がいます。

特に日本では、おかしな上下関係を強要する場面が多くあります。そのようなおかしな環境の時に利用される言葉が、記事のタイトルにもある、「常識」という言葉になります。

元々常識と言う言葉の意味は

デジタル大辞泉の解説
じょう‐しき〔ジヤウ‐〕【常識】
一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。「常識がない人」「常識で考えればわかる」「常識に欠けた振る舞い」「常識外れ」
[補説]common senseの訳語として明治時代から普及。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例


常識(じょうしき)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B8%E8%AD%98-79273

最終閲覧日 2019年06月15日
より引用

このように、「社会人が共通に持つ」という言葉が示すように、個人の主張のことではなく、基本的に自然発生的に社会の中で発生した内容のことを意味しています。

しかし、日常で使われている「常識」という言葉の多くの意味は、「自分の中での常識~」というのが正解であり、本来の社会的な範囲の内容とは真逆の意味合いになっています。これにより、多くの人が不要に傷つけられたり、不快な思いをしているのです。

それをここでは、個人の感情的な側面として認識をされるかもしれませんが、それだけではなく、個人の生産性などにも大きく影響が出てきます。簡単に言うのであれば、「嫌な気持ちで高いパフォーマンスは出せない」ということです。
これを社会の枠組みで考えると、「社会の進化の妨げにもなっている」ということです。

本来、社会的な要素をより良くする意味合いで使われる言葉が、一部の困った人間のわがままを押し通すために悪用をされている。
そして、社会全体にも、個人に対しても、多くの悪影響が出ている。
しかし、あまりにも日常的に多発しているので、問題として認識がされにくい…。
このような負のスパイラルにハマっていると、個人的に思ったので、このような記事を今回書きました。

個人間での不要な押し付けに関しては、最初の方に書いた様に、自分の主張を世界の意見だという風に騙しているのだと認識をすれば、今までよりも格段に精神的なストレスはなくなるし、冷静に対応ができると思います。

社会的な枠組みに関しては、規模が大きくなるので、ここでは割愛しますが、一つの考えとして、「多様性の時代である」と認識をして、日々を過ごすことは、とても大切だと思います。

以前も別の記事で少し書きましたが、今の時代と言うのは、昔の人が夢に見た時代なのです。
もし、タイムマシンに乗って昔の人が現代を観に来た時に、がっかりするような時代ではなく、やっぱり未来は素晴らしい!と心の底から思える現代にすることが、今まで時代を作ってきた人々への、恩返しの一つではないでしょうか?

もちろん、過去の人々に対してだけでなく、今を生きる人たち、そしてこれからの時代を生きる人たちのためにも、今のような歪んだ常識は無くしていくべきでしょう。

社会という範囲では、もう少し時間が必要だと思います。しかし個人と言う範囲であれば、もう少し早く効果が出ると思います。
よく書く言葉ですが、無理のない範囲で、できることから少しずつ挑戦や、調整をして貰いたいと思います。

少しでも、皆さんのお役に立てば幸いです。


それでは、今日も最高の一日を。