鴻上尚史さんと言えば演劇好きな人なら、まず知らない人はいないと思います。

今の私が、日常生活などの悩みを解決するためによく参考にしているのが、このブログでもよく出てきている、苫米地英人さんになります。

ですが、今回の本は私が苫米地さんの書籍と出会う前に参考にしていた書籍になります。
このように書くと、何やら効果がもう無さそうに聞こえますが、そんなことは無くむしろ、「流石、鴻上さん!」と思っているくらいです。

というのも、苫米地さんは認知科学者でありますから、科学的な知識を裏付けとした専門家になります。
それとは違い、鴻上さんは演劇畑の人ですから、苫米地さんのように科学的な研究などには、無縁の人です。
しかし、鴻上さんの実体験を元にした独自の解決方法や論理などの多くは、科学的にも効果があると言われる内容が沢山あるのです。

ですので、苫米地さんとは違ったアプローチによって、今までは届き難かった人たちにも何かを届けることができる確率を上げたいと思い、今回は、この書籍をメインとして記事にしました。

また今までは、なるべく書籍に出てくる内容の順番を変えないように意識していましたが、今回は色々と試してみようと思っています。


ちなみに、こちらが今回の参考書籍の一冊になります。





それでは、続きを書いていきます。


「分かり合えなくて当たり前だと思うこと」

そもそもの話として、今の時代は分かり合える確率の方が低いでしょう。

それなのに世間的には、特に問題がなく、すぐに分かり合えると「思い込んでいる人達」が沢山いるように思えます。
言葉は悪いですが、このように本気で思い込んでいる人たちは、「世界の広さを知らない」としか言えません。

いつ頃からかは正確には分かりませんが、アーティストなどを中心に、(自分の)世界は半径何メートル以内で出来ている…ということを、よく聞くようになりました。

確かにその通りの部分もありますが、この言葉を表面的に理解していると、これからの時代では、ますます息苦しくなるでしょう。

簡単に書いていきますが、先程書いたような感覚は、明治以前の日本であれば身近な関係だけで多くの人々の世界は完結をしていました。
というのも、当時の日本人は一生を生まれた村で過ごす人がほとんどだったからです。
だからこそ、現代でも世界に類を見ない数の土地ごとのお祭りを始めとした行事や、文化、そして「方言」が存在をするのです。
このようなローカルな内容が発達をするためには、長い期間(ある程度の)閉鎖的な状態を維持することで、自然と発生をする必要がありました。
そして、このような環境が全国の土地ごとに出来上がることで、今のような土地ごとの文化が出来上がるようになりました。

このような環境では、村の中だけで上手く人間関係を作ることが重要であり、また、他の村からやってた人間は、一部の旅人や仕事で移動をしていた人以外は、かなり排他的に扱われていたでしょう。
というのも、旅人や仕事以外の理由としては、何かしらの事情があり、村を出たか、追い出された…と多くの人は考えるからです。
つまりは、厄介なことはごめんだ…という扱いですね。

もちろん、このような負の側面以外にも、日本人として誇れる素晴らしい内容も沢山あります。
しかし、現代の悩みや息苦しさの原因の一つは、このような昔ながらの考え方などが関係をしています。

現代では、昔の考え方に固執をしないで、「多様性」という言葉が日常的になっているように、様々な考え方を認めて行こう!という方向に向かっている「途中」になります。

そうなのです。
まだまだ「途中」だからこそ、多くの選択肢がありすぎて困ってしまうのです。

そして先程書いたように、日本人というのは欧米のように個人の考え方を大切にするというよりも、自分が所属をする場所の約束事を個人よりも大切にする!ということを重要だと考えて生きてきました。

だからこそ、誰とでも問題なく、すぐに分かり合えるという思い込みを持ってしまう人が多いのです。
しかし、この思い込みはある一定の条件下でしか上手く行きません。

そして、今の時代の流れは集団よりも個人を大切にしていこう!という方向に向かっています。
ですが、今の日本ではこのような個人を大切にしていこう!という選択の時に、昔ながらの基準を知らないうちに当てはめるために、おかしな状態になるのです。
当てはめるという言葉が言いすぎであれば、強く影響をされている…というのでも良いと思います。

当然ですが、これらの考え方は基本的に反対の内容になります。
もちろん、共通をする部分もありますが、多くの場合、いい方向ではなく、マイナスな方向に働くのです。

また、最初から私たちは分かり合えて当然だから!という姿勢を強く相手側に押し付けるのは、むしろマイナスになるでしょう。
というのも、相手側にも自分をわかってもらうことを無意識的に強制をしているからです。

相手には強制をしないで、自分だけが、相手側を理解していこう!そのためにはどうするべきか?という思考や行動をする人は、正直今の日本ではかなり稀です。

ほとんどの場合、お互いにわかり合う!分かり合おう!という主張をする人の根底には、自分のエゴが大きくあります。
だからこそ、このような人が自分の思い通りにならないと、相手側を攻撃する側に回ることが日常的にあるのです。

しかし、見出しにもある様に「分かり合えないという前提で接する」という考え方を持つと、おかしな逆恨みもなくなりますし、分かり合えた時の感動も今よりももっと大きくなるでしょう。

ただし、私が思うことは、「自分のエゴや利益のために、他人と関係を持たない…」ということです。
要は、自分の都合のいい道具のように人を扱わない、考えない、認識をしない…ということです。
悲しいですが、このような人は、今の日本には沢山います。


「ニセモノの孤独を知る」

この書籍は「本物の孤独は素晴らしい」ということを書いている本です!と冒頭にある様に、世間的な孤独という認識とは違った内容になっています。

その中で分かりやすく書いているな~と、私が思う言葉に、「ニセモノの孤独」という言葉があります。
この言葉を説明するときに、多くの人が日常的に感じる、「一人でいると惨め」、「休日に一人で過ごしていると情けない」、「恋人や結婚相手、友人がいないのはみっともない」、「一人でいるのが寂しい、嫌だから嫌いな人とも我慢して仲良くしたりしなければならない」、「本当は嫌なのに職場等の飲み会に我慢して参加をする」…というような内容が沢山出てきます。

これらはすべてが「ニセモノの孤独」になります。

私なりに「ニセモノの孤独」を言い換えるとしたら、「自分のエゴを満たすために人間関係を利用する」という言い方ができるでしょう。

先程の例を見て貰えばわかるとおりに、すべて何かしらの個人的な欲求を解消するために、もしくは、解消できないことに苦しんでいます。

もちろん人間は承認を求める生き物ですから、このような欲求があるのは悪いことではありません。
しかし、現代ではこの欲求が「度が過ぎる」のです。
それは、ネットでよく起こる過剰な内容がわかりやすいでしょう。
もちろん、一部の人間はこのような方法で小銭を集めようとしていますが、必ずしも金銭が関係しているとは限らないのです。
というか、金銭が全く絡んでいない内容も多くあります。

これからわかるように、金銭欲よりも強い欲求の一つが、承認欲求だとも言えます。

そして、この欲求はこれからますます強くなっていくでしょう。

ということは、今のまま「ニセモノの孤独」に振り回されていると、いつまでたってもこの苦しみからは逃れられないでしょう…。


「中途半端に壊れた共同体と世間という神様に苦しむ現代人」

ここまで読まれた人であれば、このような苦しみには、自分以外の他人や他人の集合体になる世間という内容が大きく関係していることがわかると思います。

しかし、世間というのは、中途半端に壊れ、歪んでいるのです。
これは、多くの人が体感的にわかっていると思います。

そもそも、このような歪んだ基準を元に真理を求めるような行為は、ハッキリ言って愚かだとしか言えません。
それはルールに穴があるのに、必死になってプレイをするスポーツ選手のようなものです。
自分は必死になってルールを守ってプレイをするのに、ルールを無視している選手にいつも負けてしまう。
こんなことはおかしい!と怒っているようなものです。

ですが、そもそもの前提として、守るべきルールが「いい加減」なのです。
そのようないい加減な内容を絶対的に守っていても、めちゃくちゃにされるのは簡単にわかるでしょう。

しかし、これが日常生活や人間関係になると、途端にわからなくなる人が沢山居ます。

ちなみにこれは、法律を無視するとかそういう意味では無いですよ。
その辺を誤解しないようにしましょう。

法律はあくまでも社会生活をより良くするためのものであり、絶対的な真理ではありません。
だからこそ、必要に応じて法律を改正しているのです。

そして、今回の話は法的な内容とは基本的に一切関係がありません。
というか、そもそもの話として、自分にとっての人間関係や生き方までも法律に委ね、従う…というのは、単なる思考停止の奴隷です。

当然ですが、自分の人生は、自分で逐一考えて生きていくものです。
そして、生きるというのは現代においては、社会でどのように過ごすのか?という部分も大きく関係してきます。
だからこそ、自分の頭でしっかりと考えることが大切なのです。

このような考えるという行為の中には、全体や基準が違うのでは?という疑う視点も大切なのです。
この疑う視点がきっかけとなって今起こっているのが、多様性の時代に向けて…という流れです。

そして、そもそもの話として、多くの人が基準にしている絶対的な真理のように認識をされている世間というのは、実は大きく歪みがあるのでは?と思うことも、立派な思考になります。

ただ、ここでも厄介なのが、日本は世界一に豊かで安全な国だということです。
今のところは…。
そうなると、世界の貧困国家のように、生きるために必死になる。悩む時間など無い!という状態には、基本的には今の日本人はなりません。

そして、豊かな日本だから起きる「悩みに苦しめられる…」という現象があります。


「悩みは脳の暇つぶし」

狩猟時代より前の人類には、悩みという行為は無かったと言われています。
それは、農耕生活とは違い、悩む暇が一切ないからです。
悩みというのはある程度安定をした環境によって、「脳の暇をつぶすために生まれた…」という考えがあります。

実際に皆さんが悩むときはどのようなときでしょうか?
少し観察をしてみてください。

おそらく、自分がやりたくもないことをやっているときだったり、どのように時間を使おうか迷っているときなどが多いのではないでしょうか?

ですがこれが、例えば、大型の台風が直撃をして、避難をしている真っ最中で、まさに生きるか、死ぬか…という状態のときに、来月の期末テストについて悩むことは、まずないでしょう。

つまりは、目の前に悩むよりも重要度が高い内容が出現すれば、悩んでる時間なんてない!ということです。

そして、「悩むこと」と「考えること」は「別モノ」になります。
悩んでいる時間からは、生産的な内容は生まれません。
もちろん、悩みをきっかけとした考え、思考からは何かしらが生まれます。

例えば先程の台風を例にするのであれば、毎年のように想定外と言われる気象現象に悩まされている農家の人が、この想定外を無くすために、超高性能の気象予測プログラムを開発しよう!と考えだし、実際に行動を始める…というのは、悩みから思考、行動へと変わっていく一例と言えます。

つまりは、多くの悩みは、悩めるだけ豊かな環境に生きているという証でもあります。

もちろん、私も悩む時間は基本的に嫌いです。
しかし、悩みとは単なる脳の暇つぶしだと認識をしていれば、不要に悩みだしたら、「あぁ。暇を感じているのか…。なら○○しようかな?」という風に、何でもいいから違う対象へと自発的に思考を持っていくようにしています。
この時の対象は何でもいいのです。
例えば、テスト前で勉強をした方がいいけど、それよりも今はゲームがしたいから、ゲームをしよう!という切り替えでも良いのです。
というのも、少なくともゲームがやりたい!という願望は解決するわけで、ここでゲームをしたことで、
満足をして、それ以降はテストに集中できる…かもしれないからです。

ですから、この時の判断は、「自分に正直になって」決めることを私はおススメをします。

この時に、先程の歪んだ世間の基準を持ち込むと、ゲームがしたいけどテスト勉強をしなければ…という「他人の選択をする」ことになります。
ということは、ここでもまた違った悩みが生まれる可能性が高くなるのです。

悩みは暇つぶしと書いていますが、これは何もしていないときだけでなく、「自分が嫌だと感じている時間にも出てくる」のです。
これも嫌な時間が速く過ぎるために、時間を潰すということですから、悩みが出てくる条件にはピッタリです。

ですから、「ニセモノの孤独」、「歪んだ共同体、中途半端に壊れている世間という神様」という内容を基準にすると、どんどん「本物の孤独」から遠くなります。

「本物の孤独と共に生きて行こう」

この言葉も書籍とは違う言い方をするのであれば、「自分の選択を基準に生きていく」という言い方も、私はできると思います。

というのも、「ニセモノの孤独」とは言い換えるのであれば、他人の視点を基準とした価値観を前提とした選択をすることで、出来上がっています。
しかし、それとは違い「自分が選んだ選択」であれば、世間的にどのような評価をされても、それは「自分にとっては最高の選択であり、後悔は無い」からです。

例えば私の場合、中学時代のソフトテニスの最後の大会では、ペアを組んだ相手とは、テニスの実力よりも相性を優先しました。
もちろん、この子は一番上手かったのですが、春先からおかしなフォームでプレイをするようになり、調子を崩すことになります。

その時の私は違う相手とペアを組んでいたのですが、この子が春先に一緒に出た大会で比較的いい成績を出したことで調子にのり、練習をまともにしなくなってしまいました。
その為に、私自身も、思うように勝ち進めなく、また、仲も悪くなり始めていた時に、一時的に団体戦で最後の大会でペアを組む子と試合に出ることになりました。

もちろん、そのときからフォームの不調はあったのですが、それでも私は、最後の大会はこの子と勝ち進む!と決めていました。
そして、最後の大会では本当にあと一つ…というところで、目標としていた場所には届かなかったのですが、その時から感じていたのは、「今できることは、自分なりに考えてやり切った…」という感覚でした。

もちろん、今から見ればあの時に出来たことなど山のようにあります。
しかし、そのような今の視点から過去を見ても、別に情けないとかは、一切思っていません。
むしろ、「流石だな!」と思っているくらいです。
これは、誇張でもなく本当に素直な感想です。

というのも、私は勝ちを優先するために他の選手とペアになることもできました。
もちろん、勝つことを第一に考える人であれば、このようにしたでしょう。
また当時の私も、とにかく勝ちたいと思う気持ちはかなり強かったです。
しかし私は自分の気持ちに正直になって、強くて相性もいい選手よりも、不調はあるし問題があっても一緒にプレイをしたいと思う相手を選びました。

この選択も人により評価が真っ二つに、しかも真逆の評価になるでしょう。
ですが、他人がどのように思っても、私は少しも気にしません。
だって、当時の私は、この選択が絶対に正しいと信じていたのですから。
また、だからこそ、その子や他の友人たちとも今でも、いい関係を持っているのでしょう。

というのも、高校で一時期所属をしていた部活では、こんなにも自分勝手な連中がいるのか!?という連中に沢山あったからです。
そして、このような振る舞いを中学時代にしていたら、今のような関係には絶対になっていないでしょう。

世間的には、正確には一部の世間の評価基準としては、私が最後の大会に選んだ人は確実に間違いだと言われるでしょう。
しかし私にとっては、そんな小さな枠組みの、歪んだ評価など、単なる雑音でしかありません。
それよりも、今なお誇れる、あの時の選択をした中学生時代の自分をめちゃくちゃ褒めたいくらいです(笑)

少し長くなりましたが、中学時代の私がした選択も、実は「本当の孤独」からの選択になるのです。
これは当時の私が、自分と向き合って決めた選択になるのです。

まあ、そこまで大げさではなく、勝ちにこだわって安パイを取るか、必ずフォームを直して本来の強さを取り戻すことを信じるか?という内容でしたが(笑)
そして、すでに書いているように、私は後者を選び、目標の成績は手に入りませんでした。
ですが、後悔は一ミリもしていません。
もしも漫画のように過去に戻って、選択を自由に選び直せるとしても、私は同じ相手を選びます。

これくらいに「ハッキリとした体感で、本物の孤独からの選択はわかる」のです。

逆に言うのであれば、このような明らかにハッキリとわかる体感を感じられないということは、ほぼ確実に「ニセモノの孤独」からの選択だと言えます。
つまりは、他人からの誘導といえます。

他人からの誘導という言葉からもわかる様に、自分が自発的に選んでいないので、気持ちがいい結果と、ネガティブがいつまでも付きまとう結果とにハッキリと分かれることになります。
そして多くの場合、このような生き方をすると、後者のようなネガティブな内容が積み重ねって行くことになります。
それは世間の基準を絶対的な判断基準にしているからです。
しかしすでに書いているように、世間は中途半端に壊れて、歪んでいます。
ですので、必ず自分にとってネガティブな要素が入ることになります。

しかし自分が選んだ内容であれば、このようなことにはならないでしょう。
もちろん一時的にネガティブな感情を味わうこともあると思いますが、それでも多くの場合、何かしらの学びとなって自分の中でプラスになっているハズです。

もちろん「本物の孤独」から得られる内容は、これだけではありません。

ですが、だいぶ長くなってきたので、今回はこのような内容でこの記事は終わりにしたいと思います。
別の内容は、また別の記事に譲ります。


最後に、これからの時代を生きるうえでは「本物の孤独」と上手に生きていく必要があります。
これは、難しく聞こえますが、慣れれば簡単にできるハズです。


それは、この世の中に絶対的な基準など存在をしない。

だからこそ、自分で考えて、責任をもって、生きていく。

そして、他人を道具のように扱う、考えるのではなく、自分と同じように大切に接する。


本当に簡単に書いていますが、これらをちゃんと意識していれば、少なくとも「ニセモノの孤独」に苦しめられる確率は格段に少なくなるでしょう。



皆さんの人生が、時間が、少しでもいい方向に進むことを願っています。


それでは、今日も最高の一日を!